ぼくらはみんな生きていく

医療的ケア児の娘のこと。医療、福祉、母の頭の中のあれこれを書くブログ。

昔の話① 2006.6.3 めいが生まれた日

昔の話をしようと思う。

めいの出生直後からの病気のこと。

心肺停止のこと。

障害が残ったこと。

家に連れて帰ると決めたこと。

 

まだ幼い娘との在宅生活にようやく慣れ始めた頃、旧ブログに吐き出すように並べた言葉がある。(時系列がややこしいのだけど2010年頃の私が、2006年の事を書いたもの)そのまま置いておこうかとも思ったのだけど、数年ぶりに読み返したら、

 

ああ、ろくに人に弱音も吐けなかった私は本当に馬鹿だなぁ。吐けばいくらでも受け止めてくれる人も、背中をさすってくれる人もいたのに。

でも、よく頑張ったじゃないか、私。

 

と、思ったのです。

よかったら、あの頃強がってばかりいた私の話、聞いてやってもらえませんか?

 

☆追記☆

病児、障害児の親御さんへ

 

娘の出生、病気告知、手術、急変心肺停止、障害告知、退院在宅移行までの記録です。

とても苦しかった時期の話のため、読んでご自身が辛くなるようなことがあったら、無理して読まずに、途中で止めてくださいね。(2019.3.17追記)

 

(以下、旧ブログより抜粋)

 

2006年6月3日 めいが生まれた日

ちょっとばかり難産だった。

深夜12時に病院へ駆け込み徹夜で陣痛と闘かった。その割に子宮口が開かず、痛みだけは次から次へと襲ってくるし、ゲロゲロに吐き倒し、グロッキー。

 

翌日午後3時ごろ結局無理やり破水させられ急激にお産は進み、子宮口が後一歩で全開という頃に急に胎児心拍が落ちはじめた。目に見えて先生たちが慌てだし、すぐに分娩室へ。

 

父親立会いの約束をしていたのに、旦那は分娩室にいれてもらえず。焦る先生たちから予想外に受けた処置はなかなか壮絶で色々と痛い目にあった。私の足元で

「お父さんの立会いは…」

と看護婦さん。
「こんな状況見せられるわけないやろ!!」
と先生。
(その相談私の目の前でするんですか…)

 

分娩室前にいた旦那いわく、今まで聞いたことのないような苦しむ声だけがきこえてくるので「嫁が殺される」と思ったとか。

 

結局吸引分娩で、おなかの上には先生が乗ってぎゅうぎゅう圧迫、いよいよ出るか、という時、ぎりぎりのタイミングで旦那が分娩室へ。

生まれた!やっと生まれた!一応一瞬立ち会えた旦那、号泣。

 

早く抱かせてほしいと思っていたら、ほんの一瞬だけ私の胸の上に乗せられたあと、すぐにどこかへつれていかれるめい。

 

旦那に似て顎割れてるかわいい…

ん?まって。

様子がおかしい

顔色悪くない?

なんか…

 

色々聞きたかったのに、精根尽き果てたわたしは、す----っと眠りの中へ。ほぼ気絶。

 

めいは、そのまま旦那の付き添いで別の病院のNICUへ搬送された。

 

めいがNICUに搬送されていった後、産婦人科に残された私は大部屋希望だったにも関わらず諸事情によりやたら豪華な個室にうつされ、目が覚めたあとボーっとした頭でめいのことばかり考えていた。状況がよくわからずとにかく待つしかなかった。

 

ようやく旦那が帰ってきて、状況を説明してくれた。心配はいらない、ちょっと小さく生まれたから少しの間入院して様子をみてもらうんだ、と。

 

生まれてすぐにしばらく離れていなければならないことで、めいに寂しい思いをさせてしまうこと、自分も寂しい、早く会いたい、とか色んな思いがこみ上げて涙が止まらなくなった。

 

旦那は泣きじゃくる私に

「大丈夫やから、頑張ろう」

 と、震えた声で言った。

 

どうして、旦那の様子がおかしいことに気づいてあげられなかったんだろう。めいはちっとも大丈夫なんかじゃなかった。体が小さいから入院したんじゃなかった。

 

2日後に私が初めて聞かされる医師からの告知を、このとき旦那は聞かされた直後だった。

 

産後間もない私の体と心を心配して、普段嘘つくのが驚くほど下手な旦那がこのとき一度きり、うまく私をだました。この日の優しい嘘は一生忘れない。

 

(抜粋ここまで)

 

あの頃見ることも人に見せることもできなかった写真

 

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生まれて2日後のめい。
とっても頑張ってた。えらい子だ。

 

そんで、やっぱり、かわいい。(親ばか)

 

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