みなさんは町でめいのような重症心身障害児に出会い、話す機会があったらなんと声をかけますか?
めいを連れて歩いていると、声をかけていただくことがあります。
「頑張ってね」
「かわいいね」
「手伝おうか?」
「うちの子も、実はね…」
と、その声は様々です。
今日はその中でも
「かわいそう」
という言葉について、考えてみようと思います。
かわいそうと言われたくない親達
多くの人はきっと心配や同情など、優しさからくる気持ちでかけてくださる言葉なのだと思います。
それをわかってはいても、余裕のある時にはにっこり笑ってありがとうございます、と返せるはずが、ちょっと余裕のない時など、障害児の親には刺さる時があるのです。
- 哀れに思われたくはない
- 大変なこともあるけど幸せなのに
- 子供にあなたはかわいそうな子だと思わせたくはない
- とってもかわいい子なのにな…
など、その思いは人により様々ですが、かわいそうだと言われてちょっと複雑な気持ちになったことのある人は、どうやら私だけではないようで、よく耳にします。(Twitter上でも、リアルでも)
だけど、ふと思ったのです。
重症心身障害児の娘を連れて歩いているとたまに「かわいそうに」とか「大変ね」と声をかけられる。年配の方が多い。
— 林めぐみ (@megumeimusic) 2019年3月19日
だいたい「ありがとうございます。何とか毎日楽しくやってます」と返すけど…
もしかしたら、この子達が「かわいそう」で「大変」だった時代を知っているから出る言葉なんだろうか。
障害児者が「かわいそう」な存在だった時代
今、障害者の権利や支援についてなど多くの議論が交わされ、町のバリアフリー化は進み、新しい福祉サービスが生まれ、実際にどんどん障害児者の行きやすい世の中へ変わってきています。
まだこんなことが足りていない、こんなことで困っている、などの声も聞かれますが、その声を上げることすら許されないような、存在すらを隠されていた時代が、そう遠くはない昔に実際にあったのです。
めいがお世話になったリハビリの先生に、20年程前は県内でも少し田舎の方行くと座敷牢のようなものがリアルに存在したのだという話を聞いたことがあります。
(7年ほど前に聞いたので今から30年弱前、ということになりますね)
私が子供のころのことです。そのころに、まだそんな事があったのだという話にとても驚き、そしてショックを受けたのを覚えています。
その存在を隠され、家からも出られずリハビリも、教育も、福祉サービスも受けることなく大人になったその人たちの体はひどく変形していて苦しそうだった、と先生は話してくれました。
私たちに「かわいそう」だと声をかけてくださる方の多くは年配の方達です。
そう、実際に存在した「かわいそう」な障害児者を知っている世代の人かもしれません。
ふと、そう考えたときに、かけてもらった言葉の意味、その受け止め方が少し変わる気がしたのです。
かわいそうな障害者を知らない現代のこどもたち
現在養護学校に通うめいですが、年に数回居住地域の小学校との交流を持たせていただいていました。
そこで子供たちにこんな質問をしたことがあります。
「めいに会って、どう思った?」
きっと、かわいそうという言葉が出るだろうと思っていたのですが、かわいそうだと思う、と言った子供は、ゼロでした。
「普通に接するのがいいと思うよ」
と言ってくれた子もいました。
その学校は支援級が充実しており、子どもたちは様々な障害を持つ子達と日常的に一緒に生活していくことを経験していたのです。子供達同士で声を掛け合ったりフォローしあったりしている姿がとても印象的でした。
(医療的ケアを見聞きし触れるのは初めてだったようでしたが)
かわいそうが昔の話になる時
私が子供のころ、最寄り駅にはエレベーターがついていませんでした。障害のある人も、町で見かけることはそうなかったように思います。
町のバリアフリー化も進み、世間の理解もどんどん深まり、健常者も、様々な障害を持った人たちもどんどん外へでかけていきやすい世の中に、確実になってきています。
町にはかわいそうな障害者を知らない人であふれ、いつか障害者に「かわいそう」だと言葉をかけることそのものが昔の話になるような時が来るのかもしれません。
そんな未来が、どうかきますように。