ぼくらはみんな生きていく

医療的ケア児の娘のこと。医療、福祉、母の頭の中のあれこれを書くブログ。

障害者と健常者の真ん中で

障害のある人に対して優しくすること、配慮をすることは当たり前だと思いますか?

 

ひとりの健常者としての私の答えは「はい」です。

ひとりの障害児の母親としての私の答えは「いいえ」です。

 

なに言ってんだ?と思いましたか?

 

人は立場が変われば物事の考え方も受け止め方も変わり、それに伴って意見も変わります。そして、対極にあるその二つの意見は両立すると思っています。

今日はそんなお話です。

 

ひとりの健常者としての「はい」

 障害なんて、自分も家族も健康だし、無縁のものだと思いますか?

どんな人もいつ障害を負うことになるかわかりません。

 

社会保障を受けることは権利です。困っている人に必要な支援が届いて、生きやすい世の中になればいいなと思います。

 

私にはどこへでも歩いていける足と、ピアノを弾いていられる手と、無駄に視力の良い目と、聞こえる耳と、そこそこ健康な体があります。

 

当たり前のように感じるこれらの持ち物は、けして当たり前ではなく、もっているだけで人生の中で直面する岐路においても、何気ない日常生活においても、選択肢をいくつも自分で選び取ることができます。

 

社会保障が充実することは、障害がある人を優遇することではなく、私たちと同じように当たり前に選択する自由を用意する事。

私たちが障害のある人の手助けをする事は、社会保障やハード面の整備で追いつかないバリアを一人一人の支えで補うため。

そんな風に考えています。

 

どこかで困っている人に出会った時には当たり前の顔をして助けたいし、喜んでお手伝いします。(これは障害のあるなしに関わらず、かな)

どんどん頼ってほしいし、申し訳なく思う必要もないよ、って思います。

 

ひとりの障害児の母親としての「いいえ」

これまでめいと一緒に、数えきれないほどの優しさと、そして社会保障に守られて生きてきました。

そのどれもが嬉しくて、ありがたくて、涙が出るほど温かくて。

それを当たり前だとか「それくらいやってくれていいよね」とはどうしても思えないのです。

 

ありがたさと同時に申し訳なさを感じることもあり、声を上げること、要望する事、助けを求める事が苦手な私に、ある人が言ってくださったことがあります。

「困っていることは声に出して訴えていい。困っている人の暮らしやすい世の中はすべての人にとって暮らしやすい世の中だ。それから、また同じようなことで誰かが困った時のみちしるべになれることでもある。」

ほっとして、助けを求めていいんだ、と思わせてくれた言葉です。

 

誰かに助けてもらうことの多い私達です。

助けてもらったらありがとうと言いたいし、迷惑をかけることがあったら、すみませんと言いたいし、もらった優しさの分、自分も、めいの分まで誰かに優しくできたらいいなと思っています。

 

助ける側の人間と助けてもらう側の人間

 自分が助ける立場に立った時と、助けてもらう立場に立った時、その意見は大きく変わります。

助けてもらった側の「ありがとう」と助ける側の「当たり前のことだから気にしないで」はどちらが欠けてもいけない、逆になってもバランスが崩れるものなのだと思うのです。

 

誰かを助ける時に、感謝の気持ちを強要したり、「よかれと思ってしてあげたのに!」とか押し付けてはいけない。

けれど助けた相手から感謝もされず「これくらいやってくれていいでしょ」とか言われたらげんなりします。

 

誰かに助けてもらった時に、相手への感謝を忘れ「これくらいやってくれていいでしょ」とか言ってはいけない。

けれど、助けてもらった相手から「もっと申し訳なさそうにしろ」とか「よかれと思ってしてやったのに!」とか言われたら、もうお願いするの嫌だな…と小さくなってしまいます。

 

助けてあげたら当たり前、助けてもらったらありがとう、決して逆にならないように、どちらも忘れずにいたいと思います。

 

障害者の世界と健常者の世界の真ん中で 

 

娘には障害がありますが、私自身は健常者です。

娘が障害をおうまで、知らなかったことだらけです。

同じ世界なのに、見えていなかったし、知っているつもりで知ろうともしていませんでした。 

 

 

真ん中だからこそ見えるもの、できることがきっとある。

線を引くことなく、寄り添って同じ世界で生きていけたら、と願っています。

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並んで生きていきたい。