ぼくらはみんな生きていく

医療的ケア児の娘のこと。医療、福祉、母の頭の中のあれこれを書くブログ。

毎日続く暮らしの中で

9月から登校前の朝の時間に毎日ヘルパーさんに来ていただいている。

相談員さんとの今年のモニタリングの時、生活についてのあれやこれやを話し合い困りごとや要望を伝えたところ、タイミングよく来てもらえる事業所さんがみつかった。しかも希望の曜日全て、希望の時間に。

「毎年探してもどこもいっぱいいだったのに、ホンマにこういうのはタイミングですね〜。」

と相談員さん。

 

朝でかける前や夕方の時間帯はヘルパーさんや看護師さんに来てもらいたい人が多く、争奪戦だ。

そのため、めいのお世話になっている訪問看護や居宅介護の各事業所さんに聞いてみたり、他事業所にも空きがないか何度も相談員さん経由で探してもらっていたものの、なかなか実現していなかった。 

 

今年もまぁあかんやろうけど一応希望だけは伝えておこう、みつからなければこれまで通り私がやれば良いし、いつかそのうちみつかればいいな、ぐらいに思っていた。まさかのラッキー。

「これまで通り私がやれば良いし」というのはわりと本気で思っていて、今回も切羽詰まって出したSOSではなかった。

 

ところが、いざ来てもらうようになると、なんだこれ。朝のゆとりが、消耗具合が、違う。

めいの歯磨き、洗顔、モニターセンサーを巻き替え、靴下を履き、服を着替え、装具を着け、車椅子に移乗して靴を履き、モニターとコード類をくるりとひとまとめにして車椅子にセットし、膝掛けをかけてもらう。

その間に私はゴミを出しに行き、洗濯物を干し、めいの学校の連絡帳を書き、自分の化粧をし、少し家を整えて最後に準備の終わっためいから脱気用の注入ボトルを外し、ベッドから車椅子に移動させ再装着する。

そうして家を出る頃には主のいなくなったベッドは綺麗に整えられて、脱いだパジャマが綺麗に畳んで置かれてるし、部屋はそれなりに整っている。

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私が一人で準備していた頃は、家を出る頃になってもベッドはくっちゃくちゃで洗濯いきの脱いだパジャマは丸めて隅においやられていて、部屋も散らかったまま、めいの体調によっていつもよりケアに時間をとられてしまった日には迷いなく真っ先に犠牲にするのは私の化粧の時間であり、すっぴんでバタバタと家を飛び出すこともここ数年特に多くなっていた。そうして学校送迎を終えて散らかった家に戻る頃にはまだ午前中だというのにぐったりしていたりして。

 

ドタバタで家を飛び出し1日でかけて帰りが夕方になった日なんかは荒れている家に帰ると疲れが倍増して嫌気がさしたものだったけれど、はちゃめちゃに忙しかったこの10月も、帰る先はそれなりに整った部屋で、これまでより気持ちがずいぶん楽だった。

 

めいのケアは年々増え、その日の体調によってはケアに割く時間がずいぶん多くなる日もある。体も大きく力も強くなって、ひとつひとつの何気ない着替えや車椅子への移乗なんかも昔よりも時間がかかるようになり、朝家を出るまでの身支度にかかる時間がじわじわと増えてきていている。

今回手を離させてもらって初めて、少しずつ少しずつ増えたケアが少しずつ少しずつ積もり、私に重くのしかかっていたことに、ふと気付いた。

「これまで通り私がやればいいし」

確かにやれるかやれないかで言うとやれないことはないし、実際これまでやってきたわけで。でも。

 

昔初めて居宅介護サービスの利用をはじめた頃にそれを繋いでくれたPTの先生の言葉を思い出す。

「まだ大丈夫なうちから人に助けてもらっておくんだよ。もうダメだ、と言う時に手を伸ばすんじゃなくて。」

その時はそう言われてもまだなお「まだ大丈夫なんやけどな…」と思っていて、まずは週に一回1時間だけめいのお風呂をヘルパーさんにお任せすることになった。

 

あれから少しずつ少しずつ家に来てくれる支援者さんが増えて、利用するサービスが増え、支援日数が増えて、今では居宅介護のヘルパーさん、訪問看護の看護師さん、訪問リハビリのPTさん、訪問入浴のスタッフさん、毎日誰かが来てくれて、めいと私達家族の日常生活の一部になっていくにつれ「まだ大丈夫なうちから人に助けてもらう」ことの意味がやっとわかった気がする。

 

毎日続く暮らしの中で、めいはめいなりに世界を広げて生きている。

放っておいてもひとりで着替えるようにもならないし、ひとりでお風呂に入るようにもならないけれど、たくさんの人の手を借りながら、私がいなくても大丈夫な時間を少しずつ増やしながら、きっと笑って大人になれるはず。

 

(これは私の願いであり、祈り。)