ぼくらはみんな生きていく

医療的ケアの力を借りてご機嫌に生きる、重症心身障害児の娘の闘病記録や日々の暮らし、医療や福祉など母の頭の中のあれこれを書くブログ

昔の話⑨ 2007.4~8 おうちへかえろう

旧ブログから抜粋して昔の話をします。はじめから読む方はこちらから↓

megumeimusic.hatenablog.com

前回の続きです。前回記事はこちら↓

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 おうちへかえろう

めいの呼吸状態はなかなか改善せず、気管切開する方向で話が進み始め、より呼吸疾患の治療や手術に長けた病院へまた転院することになった。

 

転院先の病院で検査などを繰り返し二か月ほどたったころ、めいは一歳になった。

この頃になると鎮静の薬は切ることができていて意識はあったけれど、やっぱり以前とは違い、笑わず動きもほとんどなくなっていた。

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表情はなくなり反応もほとんどしなくなってしまったけれど、いっぱい話しかけ触れ続けた。

 

そんな中、気管支軟化症の改善が見られ、呼吸器の抜管ができた。

気管切開の覚悟もしていた中で、ようやくいいニュースが聞け、とても嬉しかった。

 

転院先で呼吸器の抜管に成功後、元の病院へ戻り、今度は小児科一般病棟に移りようやく初めての付き添い入院が始まった。

 

とはいえ全身状態は安定しておらず、一日中血液混じりの嘔吐を何十回と繰り返し、酸素は手放せずSPO2を下げる事もしょっちゅうだった。

 

昼夜問わず泣き、吐いて、また泣いて。

やっと眠っても、私の足音、コップを机に置くコツン、という音など、本当に小さな物音で目を覚まして起きてしまい、大泣き…きっとものすごくしんどかったんだろう。

抱っこしていると幾分落ち着くようで、ほとんど一日中抱っこしていた。

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いつも難しい顔をするようになっていた。なかなか目が合わない。

 

私はというと、食事、シャワー、トイレなど、めいの落ち着いている少しの時間を見計らって、すごいスピードでこなすようになっていった。

睡眠に至っては夜間にまとまって寝れるのは30分程で、日中めいを抱っこしながらうたた寝ばかりしていた。

個室の中で携帯電話も使えない状態で2人きり。(当時は院内携帯禁止、病院の外に出ないと携帯を使えなかった)

正直気が狂いそうになることもあったけれど、それでも一緒にいられる喜びの方が大きかった。

 

病棟に移ってから1ヶ月程経ち、吸引や栄養剤の注入などの医療的ケア、一通りのお世話をこなせるようになり、そろそろ退院も見えてきた頃、脳のMRIの検査結果が出た。

 

一般病棟に移ってから変わった新しい主治医から、厳しい告知をされた。

 

「思っていたよりも脳の損傷がひどく、大脳はほぼ全滅し機能していないし、残っているのは脳幹と、ほんの一部分の小脳だけです。

植物状態に毛の生えたような状態。
一度死んだ脳細胞は蘇る事はないので、今後めいちゃんは歩く事も、お話する事も、コミュニケーションを取れるようにもならない。

笑う事ももうないと思います。一生寝たきりです。

ただ、子供の力はすごくて、残っている脳の一部が死んだ部分の役割を担ってくれる事もあるので、リハビリを頑張ってください。」

 

告知の内容はそんな内容だった。

ああ、やっぱり、そうか。

急変後、笑いかけてくれる事もなくなった。

目も合わなくなった。

あんなにやんちゃに動かしていた可愛いおてても、固く握りしめたままで、不随意運動をくりかえすだけになった。

あんなに大好きだっただっこをせがむことも、甘え泣きも、しなくなった。

 

わかっていたけど。

 

説明は私一人に聞かされたので、仕事中の旦那に電話で伝えた。

できるだけ冷静に伝えたつもりだったけれど、冷静なんかじゃないのは旦那にはバレバレで、その日の夜仕事を終えてすぐに病院に会いにきてくれた。

 

それからめいを抱きながら、二人でたくさん話をした。

めいも家族もたくさん苦しんで、たくさん後悔もした。

けれど、現実にめいは生きている。

重い障害が残ったって、生きていてくれれば、側にいてくれればそれだけで良い。

 

その後しばらくして、退院してめいを家に連れて帰るか、施設に預け手放すかの二択を迫られた。


迷わずうちに連れて帰ることを決めた。

みんなで一緒におうちにかえろう。

付き添い開始から2か月。

めいが生まれてから1年2ヶ月がたっていた。