ぼくらはみんな生きていく

医療的ケア児の娘のこと。医療、福祉、母の頭の中のあれこれを書くブログ。

命の行先を選ぶということ

延命治療について語られるのを、見聞きするのがとても苦しい。ずっと。

 

「本人の希望ではない延命をさせる家族と医師に罰則を」

という意見をTwitterで目にして苦しくなってしまった。

それはおそらく終末期の患者の過剰な延命に対して向けられた言葉で、直接自分にむけられた言葉ではないのに。 

(だとしても罰則云々はあまりにも暴論だし、延命=悪のようなあまりに広い範囲のものをひとくくりにした物言いはどうかと思うけれど。それは一旦置いておく。)

 

我が子達の生活に欠かせない医療的ケアの数々は所謂終末期、特に高齢者への無理な延命とはまた違ったものだ、と言われていることもわかっているし、私もそう思う。我が子達のそれは生きていくための手段のひとつで未来に向かうものだ。 

 

それなのに私の胸がざわざわするのは、蘇生を、延命治療を、あの時のことを、ずっと忘れることも消化することもできずにいるからだ。

 

ほとんど人に話したこともなく、どこにも吐き出さずにいた結果13年ぶりに引きずり出されてしまったドロドロな自分と少し向き合ってみる。

結論はきっと出ない。

着地点も決めずに書く。

誰にも向けずに書く。

自分の為に書く。

 

病児、障害児の親御さんは、読むのがきついと思ったらそっと閉じてほしい。

 

13年前の1月25日。めいの心臓が、呼吸が、止まった日。

めいの命が一度消えた日のこと。

 

あの頃のこと

2007年1月25日。

深夜1時、病院から急変の知らせを受けてNICUにかけつけると、昼間のめいとは別人のような姿だった。

呼吸器につながれ、目は開いているのに上転してこちらを見ない、目がまるで合わない。

どれだけ声をかけてもまったく反応しない。

 

心肺停止、10分。

 

ほんの数時間前、あんなにご機嫌に遊んでいたのに、あんなに抱っこしたのに、私に手を伸ばしてきていたのに、私に笑いかけていたのに。もう退院するって言ってたのに。なんで。

 

病気告知からずっと心の中にあった覚悟も、すっかりどこかにいっていた。だって、あんなに頑張ったんだから、もう大丈夫だって、生きていけるって、思っていたのに。

 

何があったのか事態がのみこめずに、自分の頭と体が冷たくなっていくのを感じて立っているのもやっとで、冷静でも、正気でもなかったと思う。

口が、喉が、カラカラで、涙も出なかった。

 

めいに触れて、口をついて出た言葉が、正しかったのか、後悔すべきものなのか、今もずっとずっとわからずにいる。

 

「おねがい、がんばって」

 

一晩中側にいたのに、それしか言えなかった。

 

あのまま死なせてやりたかった

めいが退院したのは一歳二か月の頃。

急変から半年が過ぎた頃、呼吸器も離脱できて、退院の話が進み始めた。

 

めいを施設に預けて手放すか、家に連れて帰るか、二択を迫られて迷いもせずに家に連れて帰ることを決めた。絶対に家に帰りたかった。一緒に暮らしたかった。

 

待ち望んだ退院後、二度と笑えないと言われていためいが笑ってくれたこと。

一緒に過ごせること、一緒にお風呂に入れること、一緒に買い物に行ける事。

生活することの全てに喜びを感じて、嬉しくて仕方がなかった。

 

それなのに、同時に苦しくて仕方がなかった。

 

当時のめいは今思えばとても退院できる状況ではなかった。

鼻から腸まで入れたチューブに24時間栄養剤を少量ずつ流し続ける経腸栄養が必要で、毎日6時間おきに絶えず栄養剤の補給が必要だった。夜の0時に補給し翌朝6時にはまた補給した。

もう片方の鼻の穴には投薬用の胃へのチューブも入っていた。

酸素も必要だった。

痰の吸引もかなりの頻度で必要で、吸引機の瓶はすぐにいっぱいになった。

一日に何回も嘔吐し、何回もてんかん発作を起こし、一日中昼も夜もなく泣いていて、抱っこしている間だけ少しだけ眠ってくれたので一日中抱っこしていた。家事も片手でめいを抱っこしたまましていた。

まとまって眠れるような日が一日もないままどんどん時間だけが過ぎていった。

めい、いつ寝ていたっけ?

私、いつ、寝てたっけ?

記憶もあやふやで、正直はっきり思い出せないことが多い。

 

この頃のめいと私はなんの支援にもまだたどり着いておらず、家だけで過ごす毎日、極度の寝不足と疲労。不安。そして孤独。

どんどん追い込まれて日に日に絶望感が頭の中を支配し始める。

 

ある日、家のインターホンが鳴り、保健士さんが訪ねてきた。

「ああよかった、お母さん、やっとお会いできた!健診に一度も来られていませんが、お子さんはお元気ですか?」

多分あれだ。定期健診にまったく顔を出さない親子の虐待を疑っての家庭訪問だった。

いやいやいやいや…とりあえずあがってくださいな、見たらわかるわ…と、上がってもらい、ずっと入院していてやっと家に帰れたこと、見ての通りのめいの状態など一通りの事情を話した。

 

何か、助けてもらえるかもしれないと思った。のだけど。

「何か今利用できる公的な支援はないのですか?今、私が倒れたら、この子、どうなりますか?」

と私が相談したところ返ってた答えに、絶望させられた。

 

「今使ってもらえるような支援は特になくて…お母さんが倒れたら…あの、頑張ってもらうしか…」

 

後々になってわかることだけど、全然そんなことはなくて、レスパイト入院も、訪問看護も、身体介護のヘルパー利用も、緊急時一時預かりも、頼れる先はちゃんとあったのだけど、この保健師さんは障害福祉のことに詳しくなかったようだった。

でも、この時にはそれがわからなくて、どこかほかのところに相談に行くという選択肢も思いつかず、この保健士さんの言うことで頭がいっぱいになった。

 

この頃、先が見えなくて、毎日しんどそうで泣いてばかりのめいと一緒に過ごしていて、私の事もわかっているかどうかもわからず、辛くて辛くて仕方がなかった。誰も助けてくれない。

もう幸せになんて、なれないんじゃないか。私達家族だけでめいを幸せになんて、してやれないんじゃないか。守ってやれないんじゃないか。

めいが何を好きなのか、何を喜ぶのか、わからない。どうしてやればいいのかわからない。

めいは、生きていて、楽しいことなんか、なにもないんじゃないか。

 

あの時あのまま死なせてやった方がよかったんじゃないのか。

私が頑張れなんて言わなければ。

生きてほしいと願わなければ。

 

頭の中は毎日そればかりで、一緒に死んでしまいたい、と思うようになった。誰にもどこにも、言えなかったけれど。

 

広がる世界

しばらくして、当時の主治医の先生が今のかかりつけの小児病院へのつながりを作ってくれた。

 

当時の病院は総合病院で、めいのような重症心身障害児、かつ医療的ケアの必要な子供の在宅移行はほとんど経験がないとのことだった。

様々な支援に繋がれていなかったのはそのためだった事が後になってようやくわかった。

 

今お世話になっている病院に初めてお世話になり始めた時、めいと同じような子供たちがたくさんいて、心底ほっとしたことを覚えている。みんな、ここにいたんだ、と思った。

 

その後あれよあれよという間に療育に繋がり、めいにも私にも友達ができて、味方ができて、孤独じゃなくなった。

居場所ができて、いつしか

「あの時死なせてやればよかったんじゃないのか」

「一緒に死にたい」

という気持ちも消えていった。

 

「生きていてよかった」

と思えるようになった。今もそう思っている。

 

それでも。

 

正解のない世界で

今、身近に進行性の難病の子達が何人かいる。

親御さんはみんな、もしもの時の話を主治医の先生に聞かれていて、もしもの時に延命をするかどうか、どこまで手術をするか、どう生きたいか、どう見送りたいかを、先生と家族とで話をしている親御さんが多いように思う。

 

13年前、感染や予期せぬ病状悪化で何度かヒヤッとすることもあったけれど、多分順調にはいっていたんだと思う。苦しいステロイド治療も、毎日の成分輸血も、何度かの手術も。

そのためだろうか。それとも時代だろうか。

もしもの時の延命の話を先生としたことがなかったのは。それも今となってはわからない。

 

もしも、事前に延命の意思確認をされていたら私は、旦那は、どうしただろう。

できる限りのことをやってください、と自分たちの意思で言えていたら?

それとも、もしも、延命せずに見送ってやりたいと結論を出していたら?

 

もしも私があの時

「頑張れ」

と言わなかったら。

「もう眠らせてやってほしい」

と言っていたら。

 

もしかしたら、今側にいるめいが、いなかったのだろうか。

そう考えたら、おそろしくてたまらなくなる。

めいは生きたいと思っていたのか、いや、まだ赤ちゃんのめいに、そんなこと。わからない。確かめる術もない。

 

私はめいに生きてほしいと願って「しまった」のだろうか。

 

正解はない。不正解もない。

だけど、選べなかったことが、めいの気持ちを知ることがあの時も、今も、これからも絶対にできないということが、どうしようもなく苦しくて、叫びだしたくなる。

 

もしもの話をどれだけ自分に問い直しても、選べなかったことを選びなおすことは二度とできない。

あんなに生きてほしいと願ったのに、

「あの時死なせてやりたかった」

と思ってしまったことも迷ったことも消せはしない。

 

これから先の、治療や手術や、もしもの時の延命治療の選択。

意思疎通の難しいめいの意思を尊重することは、きっとできないだろう。私達親が選び決めていくしかない。

正しく選び取れる自信はない。

間違えるかもしれない。

だけど、誰にもジャッジされたくはないし、意味づけもされたくもない。

 

どう生まれて、どう生きて、どう死ぬか。

正解も不正解もない世界で。

 

どんなに苦しくても辛くても、自分たちで選びとっていく。

死ぬまで生きていく。

できることなら一緒に、少しでも長く、幸せに。

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